外国語としての日本語(02/1/5)


昨日買った本が面白かったので、新年最初の談話はその紹介とさせて頂きましょう。「外国語としての日本語」(講談社現代新書、佐々木瑞枝著)という本です。「最近面白かったもの」で取り上げても良いのですが、何回か書かせてもらった日本語に対する扱いの話題の延長の意味もあるので、談話のほうで扱ってみます。

この本は、外国人留学生に日本語を教えている現場の人が書いた本で、どのように外国人に日本語を教えるのか、また外国人はどのように日本語を理解するのか、あるいはどんなところで間違えてしまうのか、そういった話題を扱っています。この本の面白さは、我々が外国語を学習するときに苦労しているのと同じように、日本語もまた多くの文法や規則を持っているということが再確認できる、という点にあります。確かにあらためて言われてみると、こんなややこしい規則を我々は知らないうちに体得していることに驚くのです。

最初の話題はまず発音、イントネーション。
日本語は音の高低でアクセントを示しているというのはすでに別の談話で私が述べたことなので、ここでは特に細かく書きませんが、この本では同じ言葉でも後ろにくる言葉の違いで高低アクセントが変わることに多くの外国人が戸惑う様子を紹介しています。
そして、もう一つ興味ある話題は日本語の「長音」「促音」「撥音」の扱いです。それぞれひらがなで「ー」「っ」「ん」と表される音のことです。日本語では、これらの音もしかるべき時間の長さを与えられます。この本では、そういう状態を拍を持っている、と表現しています。
例えば、「かっこ」という言葉は、「か」「っ」「こ」と3拍で我々は感じます。ところが、外国人は小さい「つ」が一拍分の時間を持つことに抵抗があるのです。従って、「かっこ」が「かこ」に近くなったりします。
長音も同じ。例えば「傾向」という言葉を外国人が発音すると「けこ」と長い音が短く発音してしまうことがままあります。「けー」の長音の伸ばし具合が、「け」と一つ言ったときの倍の長さ、つまり2拍分になることが感覚的に理解できないのです。
撥音の場合、外国語だと子音として処理され、これだけに音節が与えられるというのがやはり理解できないらしい。例えば、「本の」というとき、ローマ字的には"honno"となり、これをしゃべると「ほの」というように聞こえてしまいます。しかし、日本人にとっては「ほんの」というのはあくまで3拍であり、「ん」に一拍分の長さをあてがわなければいけません。撥音については、日本の場合"n"と"m"が混じっているという問題も指摘されています。

さて、この本でとても驚いたのは動詞の活用の話題。
私たちは知らないうちにこのように複雑な活用を駆使しながら会話をしていたのかと、まるで眼から鱗が落ちる思いでした。
まず動詞は、その活用の仕方によって3つの種類に分類されます。一つは五段活用の動詞。例えば「読む」なら「読まない、読みます、読む、読めば、読もう」とちょっとなつかしい活用の仕方が思い出されます。次は、一段活用の動詞。これには上一段活用(イ段)、下一段活用(エ段)があります。かなり懐かしい名前でしょう!例えば「食べる」なら「食べない、食べます、食べる、食べれば、食べろ」と「べ」は常に一定となるのです。残りはカ変(カ行変格活用)、サ変(サ行変格活用)の動詞である「来る」と「する」です。
ときに我々はこの動詞の後ろに補助動詞を(助動詞みたいなもの)をつけて、さらに多彩な表現を行います。「動詞+て+補助動詞」という形で表されます。例えば「書いている、書いておく、書いてある、書いてみる、書いてしまう、書いてあげる、書いてくれる、書いてもらう」などです。このように、「て」をつけて後ろに補助動詞を置くような動詞の活用方法を筆者は「てフォーム」と呼んでいます。そして、この「てフォーム」の作り方がまた外国人には泣けてくるほど難しいのです。
例えば五段活用の動詞で「てフォーム」を作るときは、次のような規則になります。
 「う」「つ」「る」で終わる動詞は「って」:「買う->買って」「打つ->打って」「減る->減って」など
 「む」「ぶ」「ぬ」で終わる動詞は「んで」:「噛む->噛んで」「結ぶ->結んで」など
 「す」で終わる動詞は「して」:「移す->移して」
 「く」で終わる動詞は「いて」:「書く->書いて」
 「ぐ」で終わる動詞は「いで」:「泳ぐ->泳いで」
しかし上記は五段活用の動詞の話。一段活用の動詞は、語尾の「る」を「て」に変えます。
 「切る(五段活用):ナイフで切ってください」(「って」となる)
 「着る(一段活用):ジャケットを着てください」(「る」を「て」に変える)
 「帰る(五段活用):もう帰ってもいいですよ」
 「変える(一段活用):服を変えてもいいですか」
とまあ、動詞の活用のほんの一部だけでも、これだけの量。我々はこれを間違えるとおかしい、と感じることが出来ますが、外国人はルールとして常に頭の中で変換しながら話さなければいけないのです。これは大変な苦労です。

長い談話になりますが、もういくつかトピックを。
日本語にとって受動態は非常に重要な表現の一つです。
「図書館で借りた本、彼女に貸したら汚されて困ったよ。」の「汚されて」が受動態ですが、日本人はあまり次のようには言いません。「彼女が、僕が図書館で借りた本を汚して…」
ここで、著者はこのような表現に日本人が迷惑や被害の意識を込めている、と言います。こういった言外に迷惑の意味をこめる、というのは英語などの言語には見られず、外国人への説明に非常に苦労するそうです。
また、日本語では無生物が主語になることがあまりありません。例えば、次の文を受動態に変えなさい、という問題があったとします。
「友達は手紙を読みました」「母は大切な書類を捨てました」
何も説明せずにこの問題を留学生にさせると次のような答えを出します。
「手紙は友達に読まれました」「大切な書類は母に捨てられました」
無論間違いではないでしょうが、日本人の場合、おそらく次のように言うでしょう。
「(私は)友達に手紙を読まれました」「(私は)母に大切な書類を捨てられました」
受動態は「れる」「られる」を付ければよい、と使い方は簡単に思われがちですが、実際には日本文化に根ざした心理を表す非常に難しい表現であるともいえるわけです。

さて、最後になぜこの本が私にとって面白いものだったのか簡単に書いておきましょう。
私たちが英語を習うとき、まず自国語(日本語)の文を頭に思い描いてから英語に訳そうとします。当然、日本語には日本語的な表現があって、これをそのまま英語にするとおかしくなります。そのためには、日本語にどのような特性があるかを知るのは重要なことのように思ったのです。
もう一つは、これまで談話で扱ったように、日本語の歌が音楽的にどのような特徴を持つのか、それが日本語の特性と関わっているのではないか、という点においていくつかの示唆がされていたことです。特に「長音」「促音」「撥音」が一拍を与えられるというのは、言われてみればなるほどと言う感じでした。
歌を歌っていると色々な言語に出会いますが、足元の日本語を知ることは実は外国語を歌う場合の大きな指針になり得るのではないかと感じます。



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