今年のニュースに想う(01/12/29)


今年の大きなニュースは、何といってもニューヨークの同時多発テロ、それに続くアフガンでの戦争、ということになるのでしょうか。

それにしても、アフガンでの空爆、そしてそれに続く政権交代のニュースを見ていると、いったい国家とは何なのか?ということを感じてしまいます。片方では、ヨーロッパ西側諸国、アメリカのように政治、社会が成熟し、諸問題を武力でなく法のもとで解決できる国家が存在します。アジア諸国は欧米的観点で見れば、まだまだそういった社会的成熟度は高くはないものの、それなりに国家らしい形にはなっています。
その一方アフガニスタンを見ると、なんだかまるで日本の戦国時代のようですね。もちろん、古い日本は自分の力で内乱を解決したわけですが、現在のグローバル化した世の中では、国内問題だからといって他の国がほっといてはくれません。その国の出来事が、その国だけに収まらなくなっていて、関連する国々を巻き込み、それがさらにまた別の国を巻き込むという連鎖が続いてしまいます。
国家が誕生して、それが国民の支持を得て、立派に機能するにはやはり何十年という期間が必要なのだと思います。新しい政治権力というのはたいていは武力によって勝ち得たものです。日本が江戸時代から明治維新に変わったのも、長州、薩摩を中心とした官軍が幕府軍を武力によって抑えたからだし、アメリカだって本国イギリスの軍と戦いをして独立を勝ち取ったものであるのは周知の通り。一度はそういった血なまぐさい革命を経て出来た政権も、何十年か経つと軍頼みでなく、しっかりした政治システムを作らざるを得なくなります。そして、本来はその段階まで自分自身で変わっていかなければいけないのではないか、という気がするのです。

確かにタリバンは野蛮だったかもしれないし、国際的な倫理基準からは極めて逸脱していたわけですが、もしもう何十年も政権を取っていたらもっとあるべき姿に変わっていたかもしれません。しかし、情報が駆け巡る今の世の中において、そのような悠長なことはやっぱり言っていられないのでしょう。世の多くの人は、国際基準から外れた政治権力というのがどうしても気に入らないのです。
それにしても、そういった外国の圧力で作られた新政府がどれだけの権力を持ちえるのか、というのはやはり疑問を感じるのです。どうしても国家を法治的にしていく途中段階で、反対武力勢力を一掃するような恐怖政治が必要になる場面はあるのではないでしょうか。もちろん、そのような恐怖政治を私は肯定しているわけではないものの、ある場所に新しい政治権力が発生し、それが力を伸ばし反対勢力を押さえ、安定したところで民主化していくという過程は、やはり必要なのではと感じるのです。
とはいえ、現代の戦争はあまりに悲惨になりすぎました。もう何百年も前の牧歌的な戦争の時代に戻れません。
ならば、そういう古いタイプの国家の成り立ち方でなくてもいいのかもしれません。例えば、国連あるいは多国籍軍がしばらくの間治安を維持し、その間に政治体制をしっかりと整えるといったような方法が考えられるでしょう。少なくとも民主的な選挙が行われるまで、外部からの軍事的援助を得るということはあり得ます。
しかしやはり当事者だけで作らなかった政権というのが、果たしてやっぱり国家と言えるのか、あるいはなり得るのか、その疑問はどうしても私に付きまといます。

私たちは一方でだんだん便利になっていく世の中にとても期待しています。知りたいこと、欲しいものがすぐに手に入る、そんな世の中を欲しています。でも、情報が駆け巡るからこそ失われてしまうこと、あるいはうまくいかなくなってしまうことも一方には存在するような気がします。そういった流れが反グローバル運動、などということにも繋がったりするのでしょう。
今は、縄文時代の集落が大きくなったようなそんな超牧歌的国家になんだかとても憧れたりもするのです。



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