合唱音楽の可能性 その2(01/11/3)


合唱だからこそ可能な特殊表現といえば、やはり語りとか叫びとかの非楽音でしょう。
歌には基本的に詩が付いていて、音楽そのものの文脈以外にテキストを持ち、より具体的な内容を伝えることが出来ます。楽器はどう頑張っても言葉を語ることが出来ません。言葉なら、音楽が付かなくてもその意味は表せます。結果的に声楽曲においての一つの表現手段として非楽音的なしゃべりを入れても面白いのでは、というアイデアが思いつきます。
その方法の一つとして、完全な「語り」を入れるという方法があります。曲中にセリフ、あるいはナレーションが入るような曲。ただし、この表現は音楽的な要素とは言えず、合唱だからということにはならないでしょう。器楽曲でもナレーション入りの曲はありますので。

では、音楽的要素をもった非楽音とはどんな感じなのでしょう。
重要な要素の一つはテンポに同期している、ということです。もっと平たく言えば、楽譜上の所定のタイミングでしゃべるということです。この場合、しゃべりが数音節くらいなら、しゃべり始めのタイミングだけ示してあればよいでしょう。もう少し言葉が長い場合、あるいは音楽が断続的に進行している場合に良くあるパターンは、「しゃべり」に音程は与えずに音価だけ、つまりリズムだけ与えるという方法です。改めて言うと結構大げさですが、こういった曲は実に多いです。特殊表現とはもはや言えず、合唱曲においては充分に市民権を得た表現手段と言えるでしょう。
もう一つ、声独特の非楽音ということなら、かけ声みたいなのもありますね。日本でいえば、間宮芳生なんかが「囃し言葉」を合唱曲にたくさん使っていて興味深いです。この場合、純日本的になりますが。
さらに、擬声音というのも考えられます。特に言語的意味はなく、声が何らかの「音」を真似るといったパターン。以前、キングスシンガーズの演奏会で、時計の鳴る音(鳩時計とか)が入っている曲を聴いたことがあります。
もっと極端にこういった非楽音を取り入れる例としては、それぞれの歌い手が任意のタイミングで無声音で息を吐いたり、短い声を発したりして、ある種カオス的な雰囲気、場合によってはおどろおどろしい感じを出したりすることもあります。最もよく知られている例はやはり広瀬量平の「シーラカンス」でしょうか。

さて、前回の身体的表現、そして今日言ったしゃべり的表現など、合唱には様々な表現方法の可能性があります。人が何の道具も使わずにステージ上で出来ること、原理的にはこれら全ての表現が合唱には可能なわけです。また、人の声で可能な表現は、まだまだ色々な方法があるのではと思います。
こういった表現方法を最大限に用い、非常に効果的でしかも面白いと個人的に思っている曲の一つにトルミスの「鉄への呪い」という曲があります。ご存知の方もいると思いますが、さすがに一般合唱団で取り上げているというような話は聞いたことがありません。
表現は極めて土俗的で、ある種未開民族の宗教儀式のような妖しさを醸し出していますが、それだけに聴くものに与えるインパクトは非常に大きいのです。この曲には、中盤の盛り上がりでリズムに合わせた語りがありますし、その折に身体的動作の指示もあります。顔を上に向けたり、全員がステージの真ん中を向いたり逆に後ろを向いたり、首を左や右に振ったりなど。それらは楽譜上にタイミングが記載されています。
この曲の大きな特徴は、民俗音楽で使うようなドラムを使用するということ。シャーマンドラムと書かれていますが、これらは決して複雑なリズムを叩きません。ひたすら8分音符で連打するだけ。それでも、ディナーミクによる表現が非常に効果的です。
トルミスという作曲家は、声の表現の面白さを実によく研究していると思います。この曲も、機能和声的な世界はほとんど放棄されており、半音ぶつかりで持続させたり、フレーズが半音ずつ上昇したり、クラスター的な音使いをしたりしていますが、それでいて声の響きが美しく聴こえます。声に難しい和音を鳴らせることの空しさをこの曲は見せつけているような気がしてなりません。この曲で示されているパート間の音程はほとんどユニゾンか、半音か、3度音程なのですから。


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