合唱音楽の可能性 その1(01/10/28)


どちらかというと、私は現代音楽的な音楽が苦手、というよりは生理的に受け付けないところがあります。もちろん、現代音楽などと十把一絡げにまとめて言うのは、もう少し慎重でなければいけないのですが、大まかな傾向としてクラシック系のコンテンポラリーな音楽が一般の聴衆に受け入れられていると言い難いのは、誰しもが認めるところではないでしょうか。

ところが、長く合唱の世界に携わるものとして、こと合唱音楽に関しては、ちょっと寛大な気持ちがあるのです。
先日関東大会で聴いたようなアクロバット系合唱曲の中でも、自分にすんなり入ってくるもの、あるいは非常に感銘を受ける音楽というのがあります。
いろいろ考えてみると、合唱というのは音楽の常識に捉われない様々な表現が可能ではないか、と最近思うようになってきました。
最も、重要な点は、合唱は声さえあれば音楽が奏でられるわけで、舞台上でそれを妨げる物理的要因は器楽に比べて極端に少ないというということです。どういうことかというと、器楽の場合、楽器によっては楽器を持って動き回ることは出来ません。また、多くの場合、器楽は譜面を見て演奏します。多様な楽器、音色があるために、逆に非常に管理的にならざるを得ません。
何を言いたいか、なんとなく察してもらえると思いますが、合唱は歌いながら、身体の動作を行うことが可能です(暗譜は最低条件ですが)。どのパートがどの位置にいなければいけないか、ということも大きな決まりはありません。もちろん、だからこそ、こういった所作を伴うことが音楽とどういう関連があるのか明確でなければいけないし、説得力のあるもので無ければいけません。しかし、効果的に行えば、聴衆に対して深い印象を与えることができるでしょう。
動作というのは意外とバカにできません。何人もの人が、一度に同じ動作をする美しさというのがあります。例えば、シンクロナイズドスイミングの団体競技というのはそういう点を競うわけですし、ミュージカルや劇で全員が同じ音楽にあわせて踊る演出的効果というのは大きいでしょう。もちろん、極端にそういう要素を大きくしていくと、これは合唱団というより劇団とか舞踏集団的な世界になっていってしまいます。もちろん、新しい芸術の世界としてそれはそれで面白いかもしれませんが、まずは合唱として扱うなら、音楽を妨げない程度の動作にすべきかもしれません。

身体の動きでなく、単なる配置の問題なら、これは古今東西さまざまなことが試みられていると思います。
普通にひな壇に登るときでも、S,A,T,Bと並ぶだけでなく、男声をサンドイッチにしたり、女性をサンドイッチにしたり、男女を前後に配置したりと、いろいろなタイプがあります。場合によっては、全くパート関係なしにバラバラに配置することもあります。作曲者の指定で、合唱団が二つ以上に別れたり、同心円状になったりということもありますし、舞台上に散り散りに配置することもあります。これらが、やはり曲の効果とうまく結びつけば非常に効果的に響くことがあるわけです。
以前より、2重合唱、あるいはもっと多くに合唱団が分かれることに興味がありました。特に、2重合唱はかなり古い時代から存在しており、学ぶべき曲はたくさんあります。ただし、最近は舞台上で二つに分かれる程度では2重合唱の面白さが伝わらないと感じることも多いのです。現代的な2重合唱は単なる多声書法的試みの延長であるような曲が多く不満を感じることもありますが、過去の名曲はやはり2重合唱が対話をしている(言葉的にも、音楽的にも)ことが多く、そちらの効果のほうが私には面白く感じます。ならば、もっと大胆に二つの合唱団の位置を離してしまったほうが面白いかもしれません。
タリスの40声のモテットは全部で合唱団が8つに分かれます。これはもちろん舞台上で8つに分かれても全然面白くなくて、合唱団が聴衆を囲んで初めてその面白さがわかると思うのです。
合唱団の配置は、そういうサラウンド効果を出すのにも一役買いそうです。


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