曲の構造(01/6/9)


なんでもそうなんですが、ある程度大規模なものを作ろうとするならば、最初にその構造の青写真の作成、あるいは設計といった作業が必要になります。
もちろん、これは作曲にも当てはまること。何の準備もないまま、例えば30分近い曲を作るのは大変なことですし、そうやって出来たものは立体感のないちぐはぐなものになってしまうに違いありません。

小説でも、長編と短編ではやっぱり書き方が違うと思います。短編というのは、ちょっと思いついたアイデアを中心に肉付けして書かれているように思います。そして短編小説の魅力とは、そのアイデアの質によるのではないでしょうか。
ところが長編小説となると、アイデア性は薄れ、その代わり小説の構成が問題になってきます。長編ですから、実際に小説内で書かれる出来事が増え、当然登場人物も増え、そこで織り成す人間関係や出来事の関係が複雑になってくるわけです。そういった複雑さを、うまくまとめながら、小説の最後である一定の終結感を出すために盛り上げていかなければいけません。
江戸川乱歩の小説全集の中に、乱歩自身が書くのを放棄してしまった未完成の小説が収録されています。乱歩というのは、ポーと同じく短編が実にうまい作家で、そのアイデアが大きな魅力です。もちろん、多くの長編小説もあるわけですが、上の未完成の小説というのは、中途半端に長編を志向しながら短編的なアイデアの積み上げで書き始めたような小説だったのです。
この話、読んでいても小説として完全に破綻しているのがわかります。アイデアをどんどん積み上げていった結果、内容が発散しすぎて、まとめきれなくなっているのです。この話、ある雑誌の連載物だったらしいのですが、乱歩自身も何の見通しもなく書き始めてどうにも立ち行かなくなり、最後はその雑誌にこれ以上話が進まなくなったと謝罪文を書く羽目になりました。

音楽の世界においては、古典派からロマン派の間に楽曲の肥大化が進みました。
交響曲というジャンルが確立され、作曲家の最も重要な仕事の一つになり、編成も時間もバカでかくなります。もちろん、この交響曲を聞くことがクラシック音楽を聴く大きな醍醐味なのでしょうが、この際、聞く側も楽曲の構造についてある程度の知識がなければ、相当聞くのも苦痛となるに違いありません。
この中で最も発展した音楽形式はご存知のとおり、ソナタ形式ということになります。
本来ソナタ形式は性質の異なる二つの主題を提示し、その主題を元に音楽を展開させ、またその主題を再現するという構図なわけですが、その主題を3つにしてみたり、全体の前後に導入部とか終結部とかが加わったりして、だんだんに肉付けされました。
個人的には、このように肥大化した後期ロマン派の交響曲を聞くのは相当な苦痛なのですが、しかし、長編小説を読むが如くその世界に埋没していく快感というのもあるんだろうなあ、とは思います。

ロマン派の重厚長大な傾向への反発から、近代の音楽が生まれました。
その中でも、形式的に全く違う方向を示したのはドビュッシーです。ドビュッシーの曲には確かにそれほど規模の大きい曲はありませんが、管弦楽曲でも一楽章が10分ほどの長さのものはあります。ドビュッシーは既存のドイツ的な楽曲形式に対して全く違うアプローチをとりました。言ってしまえば、明確な構造を持たずに自由気ままに流れていくのです。主題の再現はあるものの、そこには明確な再現の意志はありません。小説で言うなら話の展開も、結論もなしに、読んだ後にある雰囲気だけを残すようなそんな感じなのです。それでも、ある程度の曲の長さになっても、音楽が発散し破綻することのないのはドビュッシーの手腕によるものですし、だからこそ誰もが真似をできるものではないのでしょう。
同じフランスの作曲家でも、ラヴェルはある程度の明確な構造を持ちました。
しかし、プーランクはまたそれほど構造性を持たないように感じます。もちろん、ドビュッシーに比べれば旋律が明快で音楽の歯切れがいいのですが、かなり気ままな構造であると言えます。

もちろん、上のような構造性は、楽曲の規模にも依存するわけで、そういう意味では、ドビュッシー、プーランクがそれほど大曲を志向していなかったことにもなります。
小説家と同様、音楽にも短編向き、長編向きの作家というのがそれぞれあるのでしょう。
どちらが優れているということはありません(ただ世間一般では長編が優れているという感覚を持つ人が多いような気がします)。それはただ好みの問題なのだと思います。
私自身は聴くほうでは割りと短編を好みながらも長編も少しくらいは聴き、また自分が作る段ではほぼ短編ばかりという感じです。全体的には短編好みの人で、構造性よりもアイデア性を楽しむような傾向があるのかもしれません。


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