薔薇色の未来?その2(01/5/19)


よく元旦の新聞なんかに、未来はこうなる!なんて特集があります。たいていは科学技術が発達してこんなことが可能になる、とかそういった話なんですが、政治、思想、経済などの予測はなかなか現在の考え方から飛躍することは難しいものです。
例えば、今我々は民主主義が最も最良の政治形態であり、資本主義が最も良い経済体制と考えています。
しかし、有能な個人による独裁政治が、ドラスティックでスピーディな政治を実現し、結局は国を助けることだってあると思います。独裁という言い方は現在ではなかなか受け入れられませんが、新しい表現で現在の政治形態のアンチテーゼとしての独裁政治があることだってあり得ます。

かなり危ない小説で「家畜人ヤプー」というのがあります。(良い子は読まないでね)
これは二千年後の未来を扱った話ですが、世界はイギリスによって支配され、白人至上主義のもと、黒人は奴隷、そして黄色人種は人間以下の家畜となって白人に奉仕する、という世界を描いたものです。ヤプーとは日本人の末裔の蔑称なのです。今でもカルト的な人気を持っている小説で漫画化もされたりしました。
これは極端な例ですが、歴史は繰り返すもので、決して人種差別や独裁政治、あるいは世界大戦のような現代の社会で悲劇と思われているものが復活しないとは限らないのです。そして、それらが「復活させてはならないもの」かどうかも、ものすごく大局的に見るならば私は判断できません。それは人類にとって、何が正義で何が悪か?という究極の疑問だからです。

と、ちょっと大風呂敷を広げましたが、さしあたって興味があるのは自分が生きている間に起こる未来の事々です。
そして、それらを予測するには経済が大きな要素となることは否めません。今の世の中、全てが経済的価値に換算される社会です。人々がどのように行動し何を求めるのか、は何にどのような価値が与えられるか、で決まります。したがって、本来はもっと経済について勉強しないことには先を読むことも難しいのですが、それでもいろいろと考えてしまうのが私の性分なんですね。

10年前に東欧圏が民主化されて以来、世界全体の市場は倍に増えたといわれています。そしてこのネット社会です。情報はあっという間に駆け巡り、それに何億人もの人が一喜一憂するのです。このため、現在は信じられない速度で市場での競争が起きており、どこもかしこも未曾有の大競争時代です。
率直に言うと、私はこんなことは何十年も続かないのではないか、と感じます。どこかでこの疲れがどっと出るのではないでしょうか。それもこの10年から20年くらいの間に。
今の競争からは少数の勝ち組と大多数の負け組が生まれます。勝ち組も半年先はわかりません。常に走り続けなければいけないのです。ふと力尽きたり判断を誤ったら最後、一転して負け組です。負け組が増えれば社会不安は高まり、犯罪も増えます。それでも市場での競争を尊重する以上、この方向から逃れることは出来ません。
それなら、いっそのこと市場での競争を止めてしまえば、という考えがそこから生まれます。そして、それが以前言ったボランティアあるいは非営利活動と結びつくのが、もしかしたら新しい社会のあり方かもしれません。
音楽文化に関しては、前回の談話のような事態になれば完全に市場経済から離脱することになります。同じように文化的なものは全て市場から離れたところで活動することが可能にならないでしょうか。そして、衣食住のような基本的なものは置いておいても、今ある多くの市場が市場経済から姿を消すことはあり得ないでしょうか。

例えば、私はこんな未来を想像するのです。
徹底的な社会の効率化で、労働の単位は細分され、人々は好きなときに好きな仕事をすることが出来ます。もちろん、その人の能力によって(それもある程度規格化される)、出来る仕事の種類が変わります。今言われているワークシェアリングの究極の形です。
人々の収入は必ずしも高くならないものの、物の値段も下がり、音楽も本もただで手に入れることが出来ます。
例えば、ある人は午前中に仕事して、午後は音楽活動します。また、ある人は日中は非営利の福祉活動をして、残りの時間でコンピュータのプログラムをして収入を得ます。
いろいろな形でそれぞれの人生を設計できる、そんな未来もなかなか良いものかもしれませんよ。



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