ボランティアの精神(01/5/4)


何回か著作権関係の話をしていますが、今回も考えようによってはその続きということになります。それは、権利や商売に関して今後大きな影響を与えそうなある思想について考えてみたいのです。

その基本的な発想は「ボランティアの精神」ということです。それは言葉の意味で言えば、自分の労働に対してその対価を求めない、ということになりますが、もっとその気持ちを正確に言い表そうとすれば、自分の知識や作業を世の中のために役立ててもらいたい、ということであり、そのモチベーションとなるのは報酬ではなく他人に役立てたという満足感、あるいはそれから生じる名誉感なのです。
これが現状最も当てはまるのは、広大なネット上における各種個人ページです。
非常に役に立つページから、こんなことを調べて何の役に立つの?というページまで、実に多くの人が全く無償でいろいろな情報を発信しています。誰に頼まれたわけでなく、みんなが自分の意思でそういった情報を流しているのです。
よく考えたらこれは驚くべきことです。普通なら、お金を払わなければわからない情報が検索エンジンを使って根気良く調べれば、誰でも何らかの情報を無料で得られるのです。おまけに、メールや掲示板などで質問したりしても、非常に懇切丁寧に答えてくれることのなんと多いことか。企業のお客様サービスだってこんなふうにはいきません。
彼らは(私も含めて)、自分が発信する情報に対してお金を取ろうとは思いません。たいていはそれ以外にちゃんと仕事を持っていて、趣味の世界でそういった行為を行っています。だからそれによって収入を得ることよりもその道で有名になれることのほうが嬉しいことなのです。

こういった考え方と同じ感覚を感じるジャンルがあります。
それは、アメリカ西海岸を中心としたソフトウェア開発の世界です。なお以降の話は、自分が聞き知った範囲内で適当に推測していることなので、適切でない断言もあるかもしれないのでご注意ください。
今のコンピュータやネットワーク環境の中心となるソフトウェアの考え方は、大体が70年代くらいに当時の若い技術者達が考えたものでした。もちろん、その内容が技術的に非常に高かったのは確かですが、それ以上にその根本にある発想が重要だったような気がします。それは、個人の権利よりも社会全体への奉仕を美徳とし、自らもその自治に積極的に関与し、全ての情報を開放して誰でも自由に閲覧でき、そしてそれに対してお互い公平な立場で議論する、といったような雰囲気です。そして、それらは当時のヒッピー文化との関連とも無縁ではないでしょう。
その基本的な環境であるUNIXというOSの上では、プログラムは実行形式でなくて、ソースファイルのまま流通しました。他の人が、こちらのほうがもっと使いやすい、と他人のソフトを変更します。その変更が良いものであれば、そのソフトが広まります。誰がそのソフトを書いたか、という権利はたいした問題ではありません。みんなが使いやすくてよいソフトになるのであれば、誰でも自由に変更してもよいという雰囲気があったのです。
現在PCの世界で流行りつつあるLINUXもその流れをくんでいます。PC上で動くUNIXベースのOSを開発したのは北欧の大学生。彼は今ではアメリカの某企業に勤めていますが、今でもボランティアでLINUXの開発を続けています。そして、世界中の多くのLINUX賛同者が同じようにボランティアでLINUXの開発をしています。ご存知のとおり、LINUXはフリーウェアで、誰でも無料で手にすることが出来ます(ただ、実際に(私を含む)素人がインストールするなら市販品のほうがよいでしょう)。開発者たちは、自分に金銭的利益がなくても、LINUXを開発しているという自負心だけで充分なのです(多分)。
経済的成功のために会社で必死に行われている仕事より、個人の自負心による無償の仕事のほうが実際質が高いと思うのは私だけでしょうか。そして、こういった権利を振りかざさないボランティアによる仕事が、意外と今後の世の中の流れを決めていくんじゃないか、そんな気がしているのです。


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