バッハという名の宗教(01/1/27)


ドイツ演奏旅行というビッグイベントを終えて、私自身でもこれまで以上にバッハという存在が大きなものになってきたような気がします。
私が初めてバッハに触れたのは大学1年の時の定期演奏会にてバッハのカンタータ4番を演奏したときです。実は、それ以降まともにバッハを歌ったことはなかったのですが、5年ほど前浜松バッハ研究会に参加してから私の合唱生活の中でバッハは一定の大きさを保つようになってきました。もとはと言えば、バッハの大曲「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」あたりを合唱人として経験しておきたい、という気持ちがきっかけでした。

バッハは言うまでもなく宗教音楽の大家です。過日も書いたとおり、宗教曲を歌うことに未だに戸惑いを感じている私にとって、今回の演奏旅行は良い区切りになったような気もしているのです。
自分なりにいろいろ思ったこととは、文化の相対性とその分裂、あるいは合従連衡の連続の歴史ということです。
例えば、キリスト教はユダヤ教をその母体にしていると考えてよいわけですが、ユダヤ教がキリスト教を包含しているわけではありません。キリスト教は旧約聖書というユダヤの教典ともいえる歴史書を同じく聖典としており、歴史の流れから言えばユダヤ教の分派みたいなものだと思うわけですが、ファンダメンタリズムの強いユダヤ教に対してキリスト教は世界中に広がりました。キリストのこういった成立過程は一つの文化の分裂とも言えるし、逆にヨーロッパ文化とユダヤ文化の結合とも言えるわけです。また、すでにキリスト教は全世界に広まる過程で、各地の土俗的信仰と結びつき、世界的に様々な異形宗教を生み出しています。
同じように、音楽は教会の中で発達してきたわけですが、音楽そのものの世界が飛躍的に広まることにより、宗教という枠の中に収まりきらなくなってきました。無論バッハは徹底的に宗教的な作曲家であったけれども、キリスト教という文化をバックボーンに生まれた新たな文化とも言えるわけで、バッハに熱狂することがキリスト教に帰依することと結びつかなくても構わないという感覚に結びつきます。
いささか都合の良い論理かもしれませんが、特にバッハはその圧倒的な質・量によって、もはや宗教といってもいいような域に達している気がします。科学知識が広まって、旧来の宗教が宗教的熱狂を引き起こせなくなった今、もしかしたら宗教といえるのは音楽のような芸術の中にあるのかもしれません。

多くの作曲家がいる中で、バッハはまさに宗教といってもよいほどの広範な広がりがあり、また研究し尽くせないほどの謎もあります。一生の間によくこれほどの曲を書いたものだと本当に感心します。コンピュータ浄書もない当時、作曲だけでなく浄書にかかった時間も莫大なものだったでしょう(二人目の妻アンナ・マクダレーナは素晴らしいバッハの浄書屋でもあった)。その中で、毎週のようにカンタータを書き、日々の務めを全うしながら、音楽的刺激を得るためにあちこちに旅行もする。能力に裏打ちされたその強気な性格によってかなり周囲に軋轢も起こすのですが、そこまでの自己実現にかけたパワーというのは常人には考えられないほどです。
もちろん、宗教に携わることによって音楽のみで十分な生活が出来た当時の社会環境もあるのでしょうが、そこに現れた天才児バッハの出現はまさに奇跡といってもいいのかもしれません。
すでにバッハ研究だけでも大きな広がりがあり、その演奏の世界も多様な広がりを見せています。自分が積極的にそれに関わるにはあまりに世界が大きすぎるので、私は一人の信者としてそのおこぼれを預かる程度にしておくのが無難なところでしょうね。


inserted by FC2 system