私が歌うワケは...(00/12/10)


同じく合唱を楽しんでいるといっても、いろいろなスタンスで合唱に参加している人がいます。
その中でも特に考えさせられるのは、「いい音楽が出来ないのなら歌っていても意味がない」と考える人達です。もちろん、誰とて演奏は上手でありたいと思います。しかし、その想いが必要以上に強くなって、しかも自分の努力の圏外で団の上達が阻害されているとしたら...やはり、そこに諦めの気持ちが生まれてくるのでしょう。私はそういった考えを否定するものではありませんし、むしろそういった人達と同じくらいの芸術的審美眼を他の人にも持ってほしいと思うくらいです。ただ、やはり私が言いたいのはもっと現実を見た上で、それを半ば容認しつつも少しずつ努力しながら歌を続けていってほしい、ということなのです。
歌を歌い続ける・・・?しかし、下手な演奏の中で歌うのが苦痛なら、一体何のために歌うのでしょう。芸術的満足感が得られないのなら、そこで歌う意味はやはりないのでしょうか。

上のような疑問にあたって、一度自分がなぜ歌っているのか考えてみることは良いことだと思います。
私の場合はどうでしょう。
私はまず根本的に合唱が好きです。何人かの中で一緒に歌を歌うことが好きです。これは、上手い下手を問わないのです。みんなで歌っていること、そのものが好きなのです。
しかし、それではなぜ私はそんなことが好きなのでしょうか。
同じ快感はカラオケでは得られません(カラオケはまた別の快感がある)。ということはやはり複数人数が声を合わせること、そのものに意味があるのしょう。
それに私はそれほど良い声、大きな声を持っているわけではありません。歌手の性能としては人並み以下でしょう。自分の声が良いことにプライドなど持ちようがないし、合唱団でそういう意味で自分を誇らしく思ったこともありません。従って、私は歌うことの優越感で歌いつづけているわけでもないのです。

妙に哲学的な言い方になりますが、人は生きている以上、常に他人に対して自分を表現したい生き物なのだと思います。そして、人はそれぞれ最も有効な自分の表現手段を探しているのだと思います。そのような表現が見つからないとき、人は大きな不安を感じ、何らかの形で逃避するか、別の方法で昇華していきます。
一番簡単に自分を表現できるのは、人と話すこと、会話することです。社交的であることは、それ自体自分を表現できる大きな力です。しかし、内向的で直接自分を表現することが下手な人もいる。私の場合、自分の中にあるそんな不安を昇華する一つの方法が、歌うことであったのではないか、と思うのです。大勢の中で歌っているとき、自分は紛れもなく集団の中の一人であることを保証されます。または、諍いのない平和な世界を保証されます。そして、歌というある意味管理された枠の中でありながらも、全員が同じ想いを感じ同じ行動を取ることに、とてつもなく感動を覚える瞬間があります。単純な奴、といわれたらそれまでかもしれないけど、それが私が歌い続けたいと思う大元の感情なのではないか、と感じるのです。
私が歌っている姿を見た人から、「楽しそうに歌っているね」とか言われます。でっかい口を開けて、身体を揺らしながら歌っている私の姿を見て、身近な人は思わず苦笑しているのかもしれません。きっと私自身は無意識の中で、ここを自分自身の解放の場と捉え、自分の表現欲求を一気に放出しているのでしょう。だから、恥ずかしいなんて思わずに、精一杯その欲求に身をゆだねようと自分では開き直っているのです。

そんな私が、歌い続ける必要がない人に「歌い続けよう」なんていうのはおこがましいことなのかもしれません。それでも人が集まらなければ合唱は出来ないわけで、いつもそんな矛盾の中で日々の合唱生活を送っています。


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