私の本棚(00/11/26)


本棚を見れば、その人の趣味や嗜好、人生観などがわかるものです。私がこれまで読んできた本を一眺めするなら、やっぱり私なりの趣味がものすごく反映しているのだと思います。
私は、そんな読書家であるつもりはないですが、一般的にはわりと本を読んでいるほうではないでしょうか。最近は昔より読書量は減っているような気もしますが、1ヶ月に数冊はやっぱり本を買っています。

私自身の読書遍歴をざっと俯瞰すると、「エンターテイメント」から「純文学、学術書」へ、そして最近はまた「エンターテイメント」に回帰しつつ社会モノが増えたような感じです(ちょっとオヤジ化してるかも)。
私自身の文化的な価値観が最も大きく変化したのが大学1年の頃。高校の頃までは、推理、SFといったエンターテイメント的な小説ばかり読んでいて、学校で習うような純文学系の小説など読んだこともありませんでした。そういった本にはなんだか鼻持ちならない雰囲気を感じていましたし、そもそも多くの理系の生徒と同様国語が苦手で、それに対してはっきりとした答えが出ない学問なんて自分の性に合わない、などと悪態をついていたものです。
その頃、結構読んでいたのが横溝正史の推理小説モノ。他に今でも本棚に飾ってあって記憶に深いものは「復活の日(小松左京)」「戦国自衛隊(半村良)」「大誘拐(天藤真)」などなど。私が高校生の頃、角川映画のシリーズが流行っていて、その原作本をよく買って読んでいたような気がします。

大学に入った私はいろんな面でカルチャーショックを受けました。
同じ工学部のクラスの連中と遊んでいれば、きっとそんなことにはならなかったかもしれません。しかし、私が入ったサークルはご存知の通り混声合唱団で、そこには理系、文系さまざまな人達がいました。特に文系の人達から受けた影響は結構大きかったような気がします。私は合唱団には入ったもののクラシック音楽だって全然知らなかったし、文学や哲学を語り合う連中の話にもついていけなかった。もちろん自分の世界とは違うからそれはそれでいいんだ、と納得すれば良かったものの、なぜかそのときに、もう少し自分なりの文化的な価値観を語れるだけの知識や経験が必要だ、と猛烈に思い始めたのです。
それでまず読み始めたのが夏目漱石。いかにもって感じですが、これは自分にはかなりフィットしたような気がします。漱石の小説に出てくる人物は、自分で自分の道を切り開けるほど強烈な力を持っていなくて、いつも人と人の狭間で悩み、くよくよする、それでいて社会の不正や不公平にはどうしても意見したくなる、そういった気の弱い文化人たちが中心です。それがなんとなく自分と重なって共感を感じたのです。
そんなところから、いわゆる純文学と呼ばれるものにあまり抵抗を感じなくなったのか、自分なりにいろんな本を選んで読み始めたような気がします。何しろ多感な時代だったから、心から感動したといえるようなそんな本もいくつかありました。
それでそのころ私はこんな風に思ったものです。こういった名作を、学校の教科書で教えるのって罪だよなあ、こういう面白い本も面白くないように思わせちゃうんだから...
(続くかも)


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